로그인明霞姉様が処刑された朝、後宮は泣いた。
少なくとも、形の上では。 白い袖で目元を押さえる妃。 香炉の前で祈る女官。 小声で経を唱える宦官。 廊下の隅で肩を震わせる下級宮女。 誰もが皇后様の死を悼み、罪人となった明霞姉様を恐れ、後宮に満ちた不穏な空気に怯えていた。 けれど、私には、その涙が全部同じには見えなかった。 本当に泣いている人。 泣くべきだと思って泣いている人。 泣いているふりをしながら、隣の女の顔色を窺っている人。 そして、涙の下で笑っている人。 後宮は、悲しみさえ序列で飾る。 皇后様のために泣く者より、玉蘭妃様のために泣く者の方が多いように見えたのは、私の目が歪んでしまったからだろうか。 いいえ。 たぶん違う。 この後宮では、死んだ皇后様より、生きている寵妃様の方が怖いのだ。 「鈴花、手が止まってる」 蘭々の声で、私ははっとした。 洗衣局には、今日も布が山のように積まれている。皇后様の喪布、妃様方の白衣、宦官たちの喪帯、女官たちの袖布。白ばかりが並ぶと、かえって目が痛い。 私は畳みかけていた布に視線を落とした。 「ごめん」 「謝らなくていいから、座りなよ。あんた、朝からずっと立ちっぱなしじゃん」 「仕事がある」 「仕事はあるよ。山ほどあるよ。だけど、あんたが倒れたら私が余計に働く羽目になるんだけど?」 蘭々はわざと乱暴に言った。 そういう言い方をしないと、私が休まないと分かっているのだ。 「それは困るね」 「でしょ。困るでしょ。私、手際いいように見えて、実は雑だから。あんたがいないと布の角が揃わない」 「それ、自分で言うこと?」 「自分で分かってる欠点は半分くらい長所って、前に明霞様が……」 蘭々はそこで言葉を止めた。 明霞姉様の名が出た瞬間、空気が変わった。 釜の湯気が白く上がる。 薪が爆ぜる。 遠くで誰かが桶を置く音がした。 蘭々は唇を噛んだ。 「ごめん」 「謝らないで」 「でも」 「明霞姉様のこと、話していい。忘れたみたいに黙る方が嫌」 私がそう言うと、蘭々は一度、泣きそうに顔を歪めた。 けれど、泣かなかった。 頑張っているのが分かった。 「あのさ」 「うん」 「私、あの時……処刑場で、明霞様がこっち見た時、ちゃんと見られなかった」 蘭々は桶の縁を指でなぞった。 「怖くて。悔しくて。なんか、顔を上げたら本当に終わっちゃう気がして。だから、鈴花の手を握ってた。あんたの手、冷たかった」 「蘭々の手は痛かった」 「ごめん」 「でも、助かった」 「……助かった?」 「私一人だったら、たぶん、あそこで声を出していた」 処刑場で。 明霞姉様の声が遮られた瞬間。 兵が近づいた瞬間。 私の喉の奥には、確かに叫びがあった。 玉蘭妃様です。 皇后様を殺したのは、玉蘭妃様です。 そう叫びたかった。 叫んで、全部終わらせたかった。 でも蘭々の手があまりに強く私を握っていたから、私は声を飲み込めた。 「だから、ありがとう」 「……やめてよ」 蘭々は鼻をすすった。 「そんなふうに言われたら、泣くじゃん」 「泣いてもいいよ」 「あんたが泣かないのに?」 「私は、あとで泣く」 「あとでっていつ」 「分からない」 「もう、そういうところ本当嫌い」 蘭々は乱暴に白布を畳んだ。 角がずれている。 明霞姉様なら、すぐに注意しただろう。 違います、蘭々。布は怒りで畳むものではありません。怒りを隠すために畳むものです。 そんな声が聞こえた気がして、胸が痛んだ。 その時、洗衣局の入り口に影が差した。 朱燕だった。 一瞬で、洗衣局の空気が固まる。 下級宮女たちが次々に頭を下げた。 朱燕はいつものように背筋を伸ばし、白玉宮付きの上級女官らしい整った衣をまとっていた。喪中であるため色は白だが、帯の縁には薄い金糸が走っている。悲しみの中でも格を忘れない。そういう装いだった。 彼女の後ろには、二人の宮女が箱を抱えている。 黒漆の箱。 嫌な予感がした。 「鈴花」 朱燕が私の名を呼ぶ。 洗衣局の女たちの視線が、一斉に私へ向いた。 名前を呼ばれることは、後宮では名誉ではない。 目をつけられたということだ。 私は手を止め、膝をついた。 「はい」 「玉蘭妃様から、お前へお心遣いです」 心遣い。 その言葉だけで、胃の奥が冷えた。 蘭々が隣で小さく息を呑む。 朱燕は宮女に合図した。 黒漆の箱が私の前に置かれる。 「開けなさい」 「ここで、でございますか」 「ええ。玉蘭妃様は、お前が悲しみに沈んでいるのではないかと案じておられる。皆にもそのお優しさを見せるべきでしょう?」 逃げ場はなかった。 私は黒漆の箱に手を伸ばした。 蓋は重かった。 指先が冷える。 ゆっくり開ける。 中には、白い布に包まれたものが入っていた。 朱燕が微笑む。 「どうぞ」 私は布を開いた。 中にあったのは、髪紐だった。 淡い緑の絹紐。 ところどころ血で黒ずんでいる。 明霞姉様が、いつも髪を結っていた紐だった。 洗衣局の誰かが悲鳴を飲み込んだ。 蘭々が立ち上がりかける。 私は彼女の袖を掴んだ。 駄目。 声に出さず、指に力を込める。 蘭々は震えながら座り直した。 朱燕は私を見下ろしていた。 「明霞は罪人として処されたけれど、玉蘭妃様はお優しい方です。あの女に情をかけていたお前の心まで罰する必要はない、とおっしゃいました」 心まで罰する必要はない。 では、これは何なのだろう。 罪人の遺品を衆目の中で渡すことが、優しさなのだろうか。 違う。 これは首輪だ。 明霞姉様は死んだ。 次はお前だ。 そういう意味の贈り物だ。 朱燕はさらに言った。 「受け取りなさい、鈴花。そして、玉蘭妃様へ感謝を」 私は髪紐を両手で持ち、額を床に近づけた。 「玉蘭妃様のご慈悲、身に余ることでございます」 声は震えなかった。 自分で不思議なくらい、静かだった。 朱燕は少しだけつまらなそうに目を細めた。 「本当に賢い子ね」 「恐れ入ります」 「ただ、賢い子ほど勘違いをする」 朱燕は腰をかがめ、私だけに聞こえる声で囁いた。 「黙っていることと、許されていることは違うわよ」 私は顔を上げなかった。 「覚えておきます」 「ええ。覚えておきなさい。あなたは覚えるのが得意なのでしょう?」 その言葉には、明らかな棘があった。 私の記憶力を知っている。 母から聞いたのか。 玉蘭妃様からか。 それとも、もっと前から見られていたのか。 朱燕は立ち上がった。 「その髪紐、粗末にしないことね。玉蘭妃様のご厚情で、罪人の遺品が焼かれずに済んだのだから」 そう言い残し、朱燕は洗衣局を出ていった。 黒漆の箱だけが残る。 洗衣局の者たちは、誰も声を出さなかった。 沈黙が重い。 やがて、一人の宮女が小さく言った。 「……玉蘭妃様って、本当にお優しいのね」 別の宮女が慌てて頷く。 「罪人の遺品まで届けてくださるなんて」 蘭々の手が震えた。 私はその手を強く握った。 ここで怒れば負ける。 ここで泣けば、玉蘭妃様の優しさが本物にされる。 だから、私は髪紐を丁寧に畳んだ。 「鈴花」 蘭々の声は掠れていた。 「それ、私にも見せて」 「後で」 「今」 「蘭々」 「今見ないと、私、怒鳴る」 私は蘭々を見た。 彼女の目には涙が溜まっているが、それだけではなかった。 怒りの中に、何かを見つけた顔だった。 私は小さく頷き、髪紐を少しだけ広げた。 蘭々は顔を近づける。 そして、囁いた。 「これ、明霞様のじゃない」 心臓が跳ねた。 「どうして」 「色は同じだけど、端の結び方が違う。明霞様の髪紐は、端に小さい結び玉が二つあった。洗う時、ほどけにくいから覚えてる。これ、一つしかない」 私は髪紐を見た。 確かに、端の結び玉が一つ。 でも私は、そこまで覚えていなかった。 蘭々が見ていた。 私が見落としたものを。 昨日、頼んだ通りに。 「それに」 蘭々はさらに声を潜めた。 「血の匂いが変」 「血の匂い?」 「うん。私、血は苦手だけどさ、洗衣局にいると怪我した布もたまに来るじゃん。血の匂いって鉄っぽいでしょ。でもこれ、甘い」 私は髪紐に顔を近づけた。 血の臭い。 その奥に、かすかな香。 甘く、冷たく、喉に引っかかる。 白玉宮の香だ。 玉蘭妃様の香。 私は髪紐を握った。 これは、ただの遺品ではない。 玉蘭妃様からの脅し。 それと同時に、何かを隠すための偽物。 「蘭々」 「何」 「ありがとう。あなた、ちゃんと見てた」 「……本当に?」 「うん。私一人なら、これを明霞姉様のものだと思い込んでいた」 蘭々は一瞬、泣きそうに顔を歪めた。 それから、小さく胸を張った。 「でしょ。私だって使えるでしょ」 「うん」 「もっと褒めて」 「後で」 「今がいい」 「偉い」 「雑」 「とても偉い」 「まあ許す」 こんな会話をしている場合ではないのに、少しだけ救われた。 蘭々は涙を拭い、急に真剣な顔になった。 「これ、どうする?」 「調べる」 「黎星様に?」 「うん。でもその前に、髪紐の端を覚えておいて。結び玉は一つ。血の匂いの奥に白玉宮の香。布地は明霞姉様のものより少し新しい」 「分かった。結び玉一つ、白玉宮の香、新しい布」 「誰にも言わないで」 「分かってる。もう怒鳴らない。たぶん」 「たぶん?」 「努力する」 私は髪紐を箱へ戻した。 玉蘭妃様。 あなたは優しさの形で毒を送ってきた。 でも、残念ながら。 鼠は、一匹ではない。 ◇ その夜、私は髪紐を持って乾燥室へ向かった。 雨が降っていた。 後宮の屋根を打つ雨音は、普段なら静かで心地よい。けれど今夜は、誰かが小さな骨を何度も折っているように聞こえた。 乾燥室には、すでに黎星様がいた。 この人はいつも先にいる。 待っているのか。 それとも、私を見張っているのか。 たぶん両方だ。 「遅い」 「朱燕様に足止めされました」 「何をされた」 「玉蘭妃様から、明霞姉様の遺品をいただきました」 私は黒漆の箱を差し出した。 黎星様は蓋を開け、中の髪紐を見た。 眉がわずかに動いた。 「悪趣味だな」 「玉蘭妃様のご慈悲だそうです」 「吐き気がする慈悲だ」 「黎星様も、そういう言い方をするのですね」 「俺を何だと思っている」 「冷たい石像のような方だと」 「石像は吐き気を覚えない」 「では、人間だったのですね」 「一応な」 会話は短い。 けれど、前より少しだけ角が取れている気がした。 気のせいかもしれない。 信じてはいけない。 私は箱の中の髪紐を指した。 「これ、明霞姉様のものではないかもしれません」 「理由は」 「蘭々が気づきました。明霞姉様の髪紐は端に結び玉が二つあったそうです。でもこれは一つ。それに、血の匂いの奥に白玉宮の香がします」 黎星様は髪紐を取り出し、手燭に近づけた。 火に近づけすぎないよう慎重に、血の染みを確認する。 「蘭々というのは、洗衣局の騒がしい宮女か」 「騒がしいですが、よく見ています」 「そうか。なら大事にしろ」 「しています」 「巻き込むな」 「もう巻き込まれています」 黎星様の目が鋭くなった。 「お前が巻き込んだのか」 「私が頼みました。見ていてほしいと」 「危険だ」 「一人では見落とします」 「下級宮女を増やしても、証言の重さは変わらない」 「でも、私の目が塞がれても、蘭々の目が残ります」 黎星様は黙った。 しばらくして、低く言った。 「お前は時々、思ったより恐ろしいことを言う」 「恐ろしいですか」 「自分が潰される前提で次を考えるな」 「後宮では、そうしないと」 「お前は後宮を覚えるのが早すぎる」 叱っているようにも聞こえた。 心配しているようにも。 私は話を戻した。 「この髪紐は、何のために送られたのでしょう。ただの脅しだけなら、本物でなくてもよかった」 「本物は出せなかったのかもしれない」 「なぜですか」 「本物に何かが付着している。もしくは、明霞の遺体や遺品がすでに別の用途で処理された」 「別の用途」 「証拠を作るためだ」 私は息を呑んだ。 「明霞姉様が毒を隠していた証拠、ですか」 「その可能性がある」 黎星様は髪紐を油紙に置いた。 「血の付き方も不自然だ。これは処刑時に付いたものではない」 「分かるのですか」 「飛沫ではない。後から塗ったように見える」 私は思わず顔をしかめた。 玉蘭妃様、あるいは朱燕は、明霞姉様の遺品に見せかけるため、血を塗った。 その血が誰のものかも分からない。 人の死まで道具にする。 「どうしました」 「後宮の女たちは、本当に何でも使うのだと思って」 「男も使う」 「黎星様も?」 「使う」 「私も?」 「使っている」 即答だった。 私は苦笑した。 「少しは迷ってください」 「迷っている間に死ぬ」 「でも、最近の黎星様は、私を道具と言う割に気を遣います」 黎星様の手が止まった。 私は少し意地悪だったかもしれない。 でも、言わずにいられなかった。 この人は冷たい。 冷たいけれど、牢の明霞姉様に白紙を渡させた。 銀匙を私に見せた。 処刑場で叫ばないよう、遠くからずっと見ていた。 それを善意と呼んでいいのかは分からない。 けれど、ただの利用とも少し違う。 「気のせいだ」 黎星様は言った。 「そうですか」 「そうだ」 「では、気のせいにしておきます」 「そうしろ」 乾燥室の屋根を雨が叩く。 その音の中で、黎星様は髪紐の匂いを確かめた。 「白玉宮の香で間違いない。ただ、もう一つ混じっている」 「もう一つ?」 「薬香だ。毒の匂いを隠すために使うものだろう」 「明霞姉様の紙にも、証拠は香と銀器に残るとありました」 「そうだ。銀匙には毒の反応が残った。では香は何を隠したのか」 「薬湯の毒の匂い」 「それだけなら、薬湯の周囲で焚けばいい。だが玉蘭妃は、自分の衣にも香を染み込ませている」 「つまり」 私は考えた。 玉蘭妃様の香。 白玉宮の香。 甘く冷たい、喉に引っかかる匂い。 薬湯に毒を入れた時、あの香があった。 皇后様の庫にも、母にも、この偽物の髪紐にも。 「香をまとっていた者が、毒に関わった証を消すため?」 「近い」 「毒の粉を扱う時、匂いが衣に残る。それを香で隠していた?」 「そう考えるのが自然だ」 黎星様は頷いた。 「だが、玉蘭妃自身が毎回動くとは限らない。香を同じにすれば、誰が毒を扱ったか分からなくなる。玉蘭妃、朱燕、香係、医官、そしてお前の母」 「母も……」 「同じ香がしていたのだろう」 「はい」 「なら、白玉宮は香で仲間をつないでいる。いや、仲間というより、同じ匂いをまとわせて罪の所在を曖昧にしている」 私は背筋が寒くなった。 香は美しさのためのものだと思っていた。 妃様方の格を示し、宮の雰囲気を作り、衣に残る生活の匂いを消すもの。 けれど、玉蘭妃様は香で罪を消している。 「香係を調べる必要があります」 「そうだな」 「白玉宮の香を調合している者」 「名は月琴。香房の下働きから玉蘭妃に引き上げられた女だ」 「女官ですか」 「半分はな。表向きは香係の女官。裏では朱燕の使い走りだ」 「会えますか」 「会うな」 「またですか」 「玉蘭妃の近くにいる女だ。お前が近づけば気づかれる」 「でも、香は洗衣局にも来ます。玉蘭妃様の衣を洗う時に」 私は思い出した。 白玉宮の衣は、ほとんど専属の者が洗う。 けれど、喪中で仕事が増えれば洗衣局にも回ってくる可能性がある。 「玉蘭妃様の喪衣がこちらに来れば、香が分かります」 「朱燕が回すと思うか」 「回させます」 黎星様が私を見た。 「どうやって」 「蓮貴妃様を使います」 「……お前、今何と言った」 「蓮貴妃様です。あの方は玉蘭妃様を嫌っています。白玉宮より上等な喪衣を求めるでしょう。そこで洗衣局の人手を口実に、白玉宮の衣もまとめてこちらへ回すよう騒ぎを起こせば」 「危険だ」 「はい」 「蓮貴妃は玉蘭妃より単純ではない。あの女に利用されるぞ」 「利用されるだけなら慣れてきました」 「慣れるな」 黎星様の声が珍しく強くなった。 私は少し驚いた。 黎星様自身も、言いすぎたと思ったのか目を逸らした。 「……とにかく、蓮貴妃には近づくな」 「でも、あの方は処刑前に白い粉に気をつけろと言いました」 「だからこそだ。あの女は知っている。知っていて、まだ生きている」 「強いから?」 「違う。自分が生き残るためなら、他人を平気で餌にするからだ」 餌。 私は髪紐を見た。 明霞姉様も、私も、きっと誰かの餌にされている。 なら、餌のまま食われるか。 毒餌になるか。 選ぶなら、後者だった。 「黎星様」 「何だ」 「私は蓮貴妃様に近づきます」 「話を聞いていたか」 「聞いていました。だから近づきます」 「鈴花」 「玉蘭妃様は、私が怯えて黙ると思っています。朱燕様は、私がただ見て覚えるだけの下級宮女だと思っています。母は、私が情で折れると思っています」 私は髪紐を指した。 「でも、蓮貴妃様だけは違います。あの方は私が何かを見ると分かっていて、白い粉に気をつけろと言いました。なら、餌にするつもりでも、何かを見せたいのです」 「罠だとしても?」 「罠なら、罠の形を覚えます」 黎星様は深く息を吐いた。 「本当に、厄介な女だな」 「下級宮女です」 「下級宮女は普通、寵妃と貴妃の間に首を突っ込まない」 「普通の下級宮女なら、皇后毒殺を見ていません」 「言い返すな」 「申し訳ございません」 「謝るな。余計に腹が立つ」 少しだけ、空気が緩んだ。 けれど、すぐに雨音が重く戻ってくる。 黎星様は髪紐を箱へ戻した。 「明日、蓮貴妃の宮へ喪布を届ける機会を作る。ただし、一人では行くな」 「蘭々を?」 「いや」 黎星様は少し考えた。 「俺が近くにいる」 「宦官様が下級宮女の布運びについてくるのは目立ちませんか」 「見える場所にはいない」 「つまり、見張るのですね」 「そうだ」 「助けては?」 「必要なら」 「必要でなくても、たまには助けてください」 言ってから、自分で驚いた。 甘えのような言葉だったから。 黎星様も少しだけ目を見開いた。 私は慌てて目を伏せた。 「今のは、忘れてください」 「忘れない」 「なぜですか」 「お前が人に助けを求めるのは珍しい」 「求めていません」 「求めた」 「求めていません」 「そういうことにしておく」 黎星様は、ほんのわずかに笑った。 本当にわずかだった。 灯火が揺れたせいかもしれない。 けれど、その表情は石像ではなかった。 ◇ 翌日、蓮貴妃様の宮へ喪布を届ける役は、私に回ってきた。 偶然ではない。 黎星様が何かを動かしたのだろう。 蘭々は「私も行く」と最後まで食い下がったが、私は首を振った。 「今回は駄目」 「なんで」 「蓮貴妃様は、蘭々が怒ると喜びそうだから」 「失礼な。私だって怒らない努力くらい」 「昨日、三回怒鳴りかけた」 「二回半だよ」 「半って何」 「途中で飲み込んだ」 そう言ってから、蘭々は真面目な顔になった。 「鈴花。無理しないで」 「うん」 「危なくなったら逃げて」 「うん」 「ちゃんと帰ってきて」 それにはすぐ答えられなかった。 蘭々は私の肩を掴んだ。 「そこはすぐ、うんって言うところ」 「……うん。帰ってくる」 「よし」 蘭々は私の帯を直した。 「曲がってる。明霞様だったら怒ってる」 「うん」 「だから私が代わりに怒る。鈴花、帯が曲がっています」 わざと明霞姉様に似せた口調だった。 全然似ていなかった。 でも、胸が温かくなった。 「ありがとう、蘭々」 「行ってこい、鼠」 「その呼び方は嫌い」 「今日は褒め言葉。小さくて、すばしっこくて、しぶといって意味」 「それなら、まあ」 「絶対踏まれないでよ」 「うん」 私は喪布を抱え、蓮貴妃様の宮へ向かった。 空は重く曇っていた。 雨は止んだが、石畳にはまだ水が残っている。歩くたびに、白い喪布の裾が湿りそうになった。 蓮貴妃様の宮は、玉蘭妃様の白玉宮とはまるで違う。 白玉宮が白い絹と淡い金で飾られた月の宮なら、蓮貴妃様の宮は、喪中であってもどこか赤い火を隠している。香は鋭く、調度は重く、女官たちの動きには無駄がない。 入り口で、前に私を打った女官が待っていた。 彼女は私を見ると、嫌そうに眉を寄せた。 「またあなた?」 「洗衣局より、喪布をお届けに参りました」 「遅いわね」 「申し訳ございません」 「謝れば済むと思っているの?」 「済まないから謝っております」 女官が目を丸くした。 私自身も少し驚いた。 言い方を間違えた。 疲れているのかもしれない。 女官の頬が怒りで赤くなる。 「下級のくせに」 「そこまでにしなさい」 奥から、蓮貴妃様の声がした。 女官はすぐに頭を下げる。 私は喪布を抱えたまま膝をついた。 蓮貴妃様は白い衣をまとっていた。 だが、帯だけは深い紅だった。 喪中に紅。 普通なら不謹慎とされる。 けれど、蓮貴妃様が身につけると、不謹慎ではなく宣戦布告に見えた。 「顔を上げなさい、鈴花」 「はい」 「今日は少し顔色がましね。昨日より死人らしさが減ったわ」 「お心遣い、痛み入ります」 「褒めてはいないわ」 「存じております」 蓮貴妃様は扇で口元を隠し、楽しそうに目を細めた。 「少し面白くなったわね、あなた」 私は何も答えなかった。 蓮貴妃様は喪布を見る。 「白玉宮にも布は回った?」 「はい。玉蘭妃様の宮には、最上の喪布が届けられております」 「あら、最上?」 声が冷えた。 女官たちの空気が変わる。 私は深く頭を下げた。 「皇帝陛下のご配慮と伺っております」 「皇后様の喪なのに、寵妃の宮に最上の布。面白い後宮になったものね」 蓮貴妃様は笑った。 笑っているが、目は笑っていない。 「ねえ、鈴花。白玉宮の布は誰が洗っているの」 「専属の者が」 「気に入らないわ」 蓮貴妃様は扇を閉じた。 「同じ後宮の喪なのに、玉蘭だけ特別扱い? なら、せめて洗いは同じ場所でなければ公平ではないでしょう」 来た。 私が望んだ流れ。 けれど、蓮貴妃様は私の思惑など見透かしているような顔だった。 「洗衣局へ命じなさい。白玉宮の喪衣も、こちらの布も、すべて同じ釜で清めるように」 女官が慌てた。 「蓮貴妃様、それは白玉宮が黙っておりません」 「黙らないなら、騒がせればいいのよ。喪中に自分の衣だけ特別に扱えと騒ぐ寵妃。見ものではないの」 「ですが」 「それとも、玉蘭の衣は他の妃と同じ釜に入れられない理由があるのかしら」 蓮貴妃様の視線が、私に向いた。 「ねえ、鈴花」 まるで、毒の杯を差し出すような声だった。 「あなたはどう思う?」 答え方を間違えれば死ぬ。 蓮貴妃様に利用される。 玉蘭妃様に睨まれる。 でも、ここで何も言わなければ、香を調べる機会は来ない。 私は膝をついたまま、頭を下げた。 「恐れながら、洗衣局の者として申し上げます」 「許すわ」 「喪衣は、身分により布の質も香の移りも違います。同じ釜で清めますと、香が移る恐れがございます」 蓮貴妃様の目が細くなった。 「続けなさい」 「ですので、同じ洗衣局で扱うとしても、釜を分け、香の残りを確認した上で清めるのがよろしいかと存じます」 「香の残りを確認」 「はい。香が強く残っておりますと、他の妃様方の喪衣に移りますので」 蓮貴妃様は扇で口元を隠した。 「なるほど。玉蘭の香が、後宮中に移っては困るものね」 女官たちは意味が分からない顔をしている。 蓮貴妃様だけが笑っていた。 「いいわ。そのように手配しなさい。白玉宮の喪衣も洗衣局へ回す。香の残りを調べて、私に報告を」 女官が青ざめた。 「蓮貴妃様、玉蘭妃様が」 「私が命じたと言いなさい」 「はい……」 蓮貴妃様は私に視線を戻した。 「鈴花」 「はい」 「あなた、鼠のくせに火種を運ぶのが上手ね」 「私はただ、布を運んでいるだけでございます」 「嘘が上手になったわ」 「後宮で長く生きるための作法かと」 蓮貴妃様は一瞬、きょとんとした。 そして、声を立てて笑った。 周りの女官たちが驚くほど、はっきりと。 「いいわ。とてもいい。玉蘭が気にするはずね」 玉蘭妃様が、私を気にしている。 その言葉は褒め言葉ではない。 死に近づいたということだ。 蓮貴妃様は笑みを消し、静かに言った。 「気をつけなさい、鈴花。玉蘭は美しい花ではないわ。甘い香を出す虫捕り草よ。近づけば、優しく閉じ込められる」 「ご忠告、痛み入ります」 「でも、あなたは近づくのでしょう?」 私は答えなかった。 蓮貴妃様は満足そうに頷いた。 「なら、せめて噛まれる場所を選びなさい。喉を差し出したら、声が出なくなるわ」 その言葉を最後に、私は下がらされた。 宮を出る時、背後で蓮貴妃様が女官に命じる声が聞こえた。 「白玉宮へ文を。喪衣の清めは公平に、と」 火種が投げられた。 誰が燃えるのかは、まだ分からない。 ◇ 白玉宮の喪衣が洗衣局へ届いたのは、その日の夕刻だった。 朱燕が自ら運ばせてきた。 怒っているのが、遠目にも分かった。 「蓮貴妃様のご命令により、白玉宮の喪衣を預けます」 朱燕の声は硬かった。 洗衣局の者たちは皆、頭を下げている。 蘭々は私の隣で、口を真一文字に結んでいた。 怒鳴らない努力をしている顔だ。 朱燕は私を見る。 「鈴花」 「はい」 「香の残りを確認するそうね」 「布を清めるために必要な作業でございます」 「誰に入れ知恵されたのかしら」 「洗衣局では、香移りを避けるため常に確認しております」 「下級宮女の分際で、ずいぶん口が回るようになったわね」 朱燕は一歩近づいた。 蘭々の肩が動いた。 私は足で軽く蘭々の足を踏んだ。 動かないで。 朱燕は白い衣の包みを指した。 「なら、丁寧に扱いなさい。これは玉蘭妃様が皇后様を悼むためにお召しになった喪衣です。傷一つつければ、洗衣局ごと罰を受けることになるわ」 「承知いたしました」 「それと」 朱燕は低く囁いた。 「余計な匂いを嗅ぎすぎると、鼻が腐るわよ」 私は頭を下げた。 「気をつけます」 朱燕は去っていった。 白玉宮の喪衣だけが残る。 洗衣局の中に、甘く冷たい香が広がった。 喉に引っかかる匂い。 玉蘭妃様の香。 蘭々が小声で言った。 「これ、昨日の髪紐と同じ」 「うん」 「どうする?」 「釜に入れる前に、袖と裾を確認する」 「私も見る」 「お願い」 私たちは他の宮女たちに気づかれないよう、喪衣を広げた。 白い絹。 軽く、滑らかで、触れるのが怖いほど上等な布。 その袖口に、わずかな染みがあった。 水ではない。 香油でもない。 薄く、淡い灰色。 私は息を止めた。 「蘭々、灯り」 「うん」 蘭々が手燭を近づける。 染みは袖の内側にあった。 普通に着ていれば見えない場所。 そこに、白い粉がほんの少しだけ残っていた。 薬湯に沈んだ白い粉。 あの日の夜、玉蘭妃様の指から落ちたもの。 私は指で触れようとして、止めた。 拾うなら、命ごと拾う覚悟をなさい。 蓮貴妃様の声が蘇る。 「触らないで」 私は囁いた。 「蘭々、覚えて」 「袖の内側。灰色の染み。白い粉」 「匂いは」 蘭々は顔を近づけ、すぐにしかめた。 「甘い。けど、奥が苦い。昨日の髪紐より強い」 「うん」 証拠だ。 けれど、まだ弱い。 下級宮女二人が見た白い粉など、いくらでも消される。 必要なのは、これを黎星様へ知らせること。 そして、この喪衣を誰にも洗わせず、できるだけこの状態で残すこと。 そう思った瞬間、背後で声がした。 「あら。何をしているの?」 心臓が跳ねた。 振り返る。 そこに立っていたのは、白玉宮の香係。 月琴だった。 細い女だった。 年は二十歳前後だろうか。白い衣をまとい、髪に銀の香玉を下げている。美人ではない。けれど、目だけが妙に印象的だった。 眠たそうで、底が見えない目。 「玉蘭妃様の喪衣を、ずいぶん熱心に見ているのね」 蘭々が青ざめる。 私は喪衣をそっと畳み、頭を下げた。 「香移りの確認をしておりました」 「香移り」 月琴はくすりと笑った。 「洗衣局の鼠が、香を語るの」 「不勉強ながら、布を扱う者として必要ですので」 「そう」 月琴は近づいてきた。 白玉宮の香が強くなる。 いや、違う。 この女自身が、香をまとっている。 玉蘭妃様と同じ香。 けれど、少しだけ違う。 もっと苦い。 もっと生々しい。 月琴は私のすぐそばにしゃがんだ。 「鈴花」 また名を呼ばれた。 玉蘭妃様の周囲の者は、皆、私の名を知っている。 月琴は微笑んだ。 「玉蘭妃様がおっしゃっていたわ。あなたは、とても鼻の利く鼠だって」 「恐れ入ります」 「褒めていないのよ」 「存じております」 蘭々が隣で息を殺している。 月琴は喪衣の袖に手を伸ばした。 白い粉の残った袖。 私は思わず、その手を見た。 月琴の爪の間に、白い粉が詰まっていた。 ほんの少し。 でも、見えた。 彼女は袖をつまみ上げ、私に見せるように笑った。 「この染み、気になる?」 私は頭を下げた。 「香油かと存じます」 「そうね。香油よ」 月琴は袖口を自分の指でこすった。 白い粉が消える。 灰色の染みが薄くなる。 証拠が、目の前で消されていく。 蘭々が動きかけた。 私は袖の下で蘭々の手を握った。 駄目。 見て。 覚えて。 月琴は満足そうに指を離した。 「これで、気にならないでしょう?」 「はい」 「賢い子」 その言葉が嫌いだ。 心底嫌いになった。 月琴は立ち上がる。 「喪衣は返していただくわ」 「蓮貴妃様より、洗衣局で清めるよう命じられております」 「玉蘭妃様のご命令よ」 「私は下級宮女です。上の方々のご命令の優劣を判断できません」 月琴の目が、初めて冷たくなった。 「では、判断できる者を呼びましょうか」 その時だった。 洗衣局の入り口から、低い声がした。 「その必要はない」 黎星様だった。 いつの間に。 黒い衣をまとい、濡れた髪を肩に落としたまま立っている。 月琴の顔がわずかに強張った。 「黎星様」 「蓮貴妃の命により、白玉宮の喪衣は洗衣局で清める。玉蘭妃が異を唱えるなら、皇帝陛下の御前で申し立てればいい」 「玉蘭妃様は、お疲れでございます」 「なら騒ぎを増やすな」 静かな声だった。 けれど、月琴はそれ以上言い返さなかった。 彼女は私を一度見た。 眠たげな目の奥に、明らかな敵意があった。 「鈴花。また会いましょうね」 私は頭を下げた。 「はい」 「次は、もっとよく香を教えてあげる」 月琴は去っていった。 その背中から、甘く苦い香が流れる。 洗衣局に残った者たちは、誰も声を出せなかった。 黎星様が私を見る。 「何を見た」 私は喪衣の袖を指した。 「袖の内側に、白い粉がありました。月琴が指で消しました。爪の間にも同じ粉が」 「蘭々」 急に呼ばれた蘭々が飛び上がった。 「は、はい!」 「お前も見たか」 「見ました! 袖の内側、灰色の染み、白い粉です! あと、月琴様の爪にも粉がありました! 匂いは甘くて苦かったです!」 黎星様は頷いた。 「よく見た」 蘭々が目を丸くした。 「え、褒められた?」 「褒めた」 「鈴花、今の聞いた? 私、宦官様に褒められたんだけど」 「聞いた」 「明日死ぬかも」 「やめて」 緊張が少しだけ緩んだ。 けれど、黎星様の顔は険しいままだった。 「証拠は消された。だが、目撃者は二人いる」 「下級宮女二人です」 「それでも、一人よりはいい」 黎星様は喪衣を見た。 「この衣は洗うな。俺が預かる」 「持ち出せるのですか」 「持ち出す」 「また捕まりませんか」 「俺は捕まらないと言っただろう」 「その自信、少し分けてほしいです」 「お前は十分、無謀だ」 「自信と無謀は違います」 「似たようなものだ」 黎星様は喪衣を包み直した。 その時、洗衣局の外で鐘が鳴った。 通常の鐘ではない。 後宮中に知らせる、華やかな鐘。 皇后様の喪中には不似合いな、明るい音。 蘭々が眉をひそめた。 「何の鐘?」 遠くから女官たちのざわめきが広がってくる。 やがて、洗衣局の外を走っていた宮女が叫んだ。 「玉蘭妃様が、ご懐妊を発表されたわ!」 空気が止まった。 玉蘭妃様。 懐妊。 明霞姉様の簪にあった言葉。 偽りの可能性高し。 黎星様の目が細くなる。 私は喪衣の包みを見た。 甘く苦い香。 白い粉。 偽りの遺品。 消された証拠。 そして、偽りの懐妊。 玉蘭妃様は動いた。 皇后様が死に、明霞姉様が処刑され、後宮が白い喪に包まれたその中で。 彼女は、皇帝陛下の子を宿した女になった。 蘭々が震える声で言った。 「ねえ、鈴花。これ……玉蘭妃様、皇后様の次になるってこと?」 私は答えられなかった。 けれど、胸の奥で明霞姉様の声がした。 見て。 私は見た。 後宮の白い喪布の上に、玉蘭妃様の赤い影が広がっていくのを。 そして、今度こそ分かった。 皇后様を殺した毒は、薬湯だけに入っていたのではない。 この後宮そのものに、もう深く染み込んでいる。第二章 第八十話 後宮の外にも地獄がありました 韓徳元の名が記された釈放命令書を見つけた時、私はすぐに戸部へ乗り込もうとしたのだけれど、それを止めたのは景黎様でも方玄でもなく、珍しく蘭々だった。「鈴花、今その顔で韓尚書のところへ行ったら、最初の三言くらいで『あなたが逃がしたんですか』って言うでしょ。それで韓尚書が『証拠は?』って返して、鈴花が余計に腹を立てて、結局また二人で難しい話を始めるから、先に何が起きたのか調べた方がいいよ」「私はそこまで短気ではありません」「うん、鈴花は怒鳴らないもんね。静かに刺すだけで」「人聞きの悪い言い方をしないでください」「でも、韓尚書本人が自分の印を勝手に使われた可能性もあるでしょう」 蘭々にそう言われて、私は返す言葉を失った。ほんの数日前なら「とにかく本人へ聞きに行けばいい」と言っていた人が、いつの間にそんな慎重な考え方を覚えたのだろう。 方玄も驚いたらしく、手にしていた釈放命令書から顔を上げた。「蘭々さんが証拠を確認してから動こうと言う日が来るとは思いませんでした」「何その言い方。私だって成長するよ」「急激すぎて怖いです」「方玄にだけは言われたくない」「どういう意味ですか」「最初は何でも『規則では』『法では』『記録上は』だったのに、最近は床の紙粉まで拾ってるじゃん」「あなた方に付き合わされた結果です」「ほら、成長してる」「私はこれを成長と認めたくありません」 そんなやり取りをしている横で、私は改めて命令書を机に広げた。 閉鎖戸籍庫の書記・林祥。死者戸籍の価格表について証言し、「すべて話す」と申し出ていた男である。 釈放時刻は今日の午前。 理由は「証拠不十分につき一時解放」。 承認者、戸部尚書・韓徳
第二章 第七十九話 白啓が笑いました 白啓の隔離室へ向かう途中、私は何度も手の中の紙を折りそうになって、そのたびに力を抜いた。 死者戸籍の価格表。 若い女、婚姻可能、土地承継可能、科挙資格、兵籍変更可能。 人の名前を、布や薬草や香木と同じように条件ごとに並べ、その横へ銀の額を書いたものだった。 その中には、紅珠の戸籍と思われる「王氏女・土地承継可・若年」という記載があり、値段は銀百両。本人が周記布店で半年働いて家へ送られた金より、死んだことにされた後の名前の方が、はるかに高く売られていた。「鈴花、紙がかわいそう」 隣を歩いていた蘭々が言った。「何がですか」「さっきから握りすぎ。紙に怒っても仕方ないでしょ」「怒っていません」「怒ってるよ。鈴花、本当に怒ってる時だけ口がすごく丁寧になるもん」「いつも丁寧です」「今の『いつも丁寧です』が一番怖い」 私は手元を見ると、確かに紙の端が少し曲がっていたので、仕方なく方玄へ渡した。「持っていてください」「最初から私が持つと言ったでしょう」「白啓に見せるのは私です」「見せるだけなら、私が運んでも同じです」「私が持っていた方が腹が立つので」「それは理由になっていません」「でも分かります」 蘭々が横から頷いた。 方玄は、理解できない人たちに囲まれたという顔で天井を見た。「そもそも、どうして蘭々さんまで同行しているのですか」「白啓が嫌いだから」「理由になっていません」「鈴花一人だと、あのおじいさんにまた嫌なこと言われて黙り込むかもしれないし」「黙り込みません」
第二章 第七十八話 名前は売れる 翌朝、紅珠に「お母さんが来ています」と告げるまで、私は何度も頭の中で言い方を考えていたのだけれど、結局、気の利いた言葉など一つも思いつかなかった。 母親が娘を三年間死んだと思っていたことも、昨日は役人の前で「娘ではない」と嘘をついたことも、その理由が弟を殺すと脅されたからだったことも、銀十両を受け取って生活のために使ったことも、どれか一つだけなら説明できる。しかし、それらが全部同時に存在しているのが人間で、ひとまとめにして「お母さんも仕方がなかったのです」と言えば紅珠を傷つけるし、「あなたを裏切った母親です」と言えば梅春の三年間を削ってしまう。 だから私は、医療房の寝台で朝の薬湯を嫌そうに飲んでいる紅珠へ、余計な飾りを付けずに言った。「紅珠さん。お母さんが、昨夜ここへ来ました」 紅珠の手が止まった。 椀の中で、薄茶色の薬湯が小さく揺れる。「……母さんが?」「はい。柳根村から一人で来ました」「どうして?」「あなたに会うためです」「私のこと、娘じゃないって言ったんですよね」 予想していた。 それでも胸が痛む。「役人には、そう言いました」「じゃあ、何で会いに来るんですか」「それを、お母さん自身から聞きますか」 紅珠はすぐには答えなかった。 薬湯の椀を膝へ置いたまま、唇を引き結んでいる。十四歳の子供らしい顔と、大人を信用しない人間の顔が、同じところにあった。「鈴花さんは、もう聞いたんですか」「聞きました」「じゃあ教えてください」「私から聞くのと、お母さんから聞くのでは違います」「でも、母さんが嘘つくかもしれない」「その時は、私たちが
第二章 第七十七話 死んだ娘の母 紅珠の母・梅春が「その娘は自分の娘ではない」と証言したという報告を、私はその日のうちに紅珠へ伝えることができなかった。 隠しておけば傷つかないと思ったわけではないし、都合の悪いことを黙って守ったつもりになる人間がどれほど相手を苦しめるのかは、明霞姉様や皇后様や母を通して嫌というほど知っている。それでも、周記布店の跡から戻ったばかりの紅珠が、新しい布靴を嬉しそうに脱いで医療房の寝台へ上がり、「母さんに会ったら、この靴を見せてもいいですか。三年前に家を出る時は、弟のお下がりみたいなぼろぼろの草履だったから、きっとびっくりします」と笑った時だけは、喉まで出かかった言葉を飲み込んでしまった。 私はずるい。 たぶん、それでいい。 人間はいつも正しい時刻に正しい言葉を言えるわけではないし、言えなかったことまで記録しておいた方が、後で自分を綺麗な人間だと思い込まずに済む。「鈴花、さっきから紅珠の寝顔ばっかり見てるけど、何か顔についてる?」 医療房の戸口にもたれた蘭々が、声を落として聞いてきた。「ついていません」「じゃあ、言うかどうか悩んでる?」「……はい」「母親のこと」「はい」 蘭々は珍しくすぐには何も言わず、紅珠の寝台から少し離れた椅子へ腰を下ろした。医療房の窓から夕方の光が差し込み、眠っている紅珠の頬を薄く照らしている。まだ十四歳なのに、眉間には小さな皺が残っていた。眠っていても、何かを心配している顔だった。「私だったら、今は言わないかも」 蘭々が言った。 少し意外だった。「蘭々なら、すぐ言うと思いました」「どういう意味?」「思ったことをそのまま言うので」「私だって相手が寝る前に一番嫌な話くらいは考えるよ。たぶん」
第二章 第七十六話 鼠でも紙は齧れます 十二人分の死亡戸籍を机の上へ並べた翌朝、還名房にはいつもの倍ほど人がいるのに、いつもより静かだった。 戸部から派遣された書記が二人、方玄の指示で死亡年月日や出生地を書き写し、白瑛は旧白家網の記録と照合するため別の机で帳面を開き、蘭々は「字ばっかり見てると頭が腐る」と文句を言いながら、そのくせ誰より熱心に紙の端へ顔を近づけている。私は十二人の名前を何度も読み返していたけれど、今のところ分かっているのは、全員が一度正式に死んだことにされ、その後どこかで戸籍番号を再び使われているということだけだった。「これ、本当に十二人だけなんですか」 私が尋ねると、方玄は書き写していた筆を止めずに答えた。「昨日持ち出された閉鎖戸籍が十二件というだけです。同じ処理をされた記録が過去に何件あるかは、戸部が現在調査しています。ただし閉鎖簿は膨大ですから、すべて照合するには時間がかかります」「つまり、誰かが十二件を盗もうとしたおかげで、十二件については気づけた?」 蘭々が言う。「皮肉ですが、そうなります」「だったら、盗んだ人ってちょっと親切じゃない?」「犯罪者を妙な褒め方で評価しないでください」「でも、燃やされてたら分からなかったんでしょ?」「だからこそ、持ち出した理由を調べています。証拠を消すつもりだったのか、別の場所へ移すつもりだったのか、誰かが先に保護しようとしたのか、それすらまだ不明です」「また不明」 蘭々が嫌そうに言った。「昨日から不明ばっかりじゃん」「調査というものは、最初は分からないことを増やす仕事なのです」「普通、減らす仕事じゃないの?」「何が分からないのかを正しく増やさないと、最後まで減りません」「方玄って、難しい言い方するの好きだよね」「あなたが簡
第二章 第七十五話 帳簿の方が人間より偉いそうです 戸部尚書・韓徳元という名を見つけたからといって、すぐにその人を犯人だと決めつけられるほど、世の中は親切にはできていなかった。 むしろ厄介なのは逆で、偉い人間の名前が一枚の書類に書かれているだけでは、何の証拠にもならないことである。戸部尚書ともなれば、本人が一日に目を通す書類だけでも相当な数になるらしく、最終的な承認印を部下が管理することも珍しくないのだと方玄は説明した。つまり、韓徳元本人が紅珠の戸籍を知っていた可能性もあれば、知らないうちに名前だけ使われた可能性もあり、あるいは全部知った上で「私は部下を信じて印を預けていただけです」と言い逃れることもできる。「それって、偉くなるほど自分の名前で何をされても知らなかったって言えるってこと?」 還名房へ戻る途中、蘭々へ事情を話すと、彼女は露骨に嫌そうな顔をした。「そんな便利な話ではありません」 方玄がすぐ訂正する。「官印の管理責任がありますから、勝手に使用されたならそれ自体が問題になります。ただ、印があるというだけで本人が不正を指示した証拠にはならない、と言っているのです」「でも、紅珠を死んだことにした戸籍があって、その死人が結婚して、土地までもらって、その全部を戸部が通してるんでしょ?」「そうです」「じゃあ戸部が悪いじゃん」「戸部という役所全体を一人の人間みたいに扱わないでください」「でも戸部でしょ?」「そういうところです、あなたの悪いところは」「何、その言い方」「そのままの意味です」「方玄って私にだけ厳しくない?」「あなたが私にだけ話を最後まで聞かないからです」「鈴花、方玄がいじめる」「二人とも歩きながら喧嘩しないでください。人に見られます」「もう見られてるよ」







